大変なことに

いやはや大変なことになっている。
九州がちぎれてしまうほどの天変地異がおきている。
地震などというものではなさそうだ。
一人でも多くの人に助かってほしいと祈らざるをえない。
中越地震のあとに能登へ行ったことがある、すさまじい自然の力だった。
新潟中越地震のあと走れるようになった関越を走り新潟まで行ったことがある。
その時もすさまじい爪痕の中そろりと関越自動車道を走った。
東日本大震災のあとも福島飯坂温泉まで仕事で行った、それは大変なことでした。
こちらは爪痕よりも福島原発への漠然とした恐怖が勝っていてもっとやっかいだ。
(私は真っ赤なリンゴをお土産に買ってきた。)
九州も博多から佐賀、長崎、熊本回りで鹿児島まで、あとは一旦もどって大分から延岡、宮崎までぐるっと回った。
以前東国原氏が知事時代によく言っていたが宮崎だけ高速道路がないのだ。
鹿児島から下道を走るより、高速で途中まで戻ったほうが早いのだ。
さすがの千さんも同じバスで移動していた。
九州の独特な雰囲気が好きだ。
昔は鹿児島でタクシーに乗ると無線でやり取りする運転手の会話は何も分からなかった。
薩摩弁だ!
演歌歌手の中村美律子さんで宮崎は都城へ行った時、ギターの太田君がこちらの出身ということで挨拶をしろということになった。
ギターアンプの前で立ち上がり、地元の方言で挨拶した、物凄い拍手だった。
こちらも何も分からず。
日本も捨てたもんじゃないと思った瞬間だ。
(最近注目されている宮崎の西諸、外人が出てきて何か話している、その後にテロップが出て西諸弁であることに気付く)
その昔宇部興産時代宇部は月一で出張するようになった。
生産会議の資料提出と議事進行が仕事。
終わると船で栄えた町の居酒屋で薩摩白波をなみなみとついでくれ、乾杯。
そのころの薩摩白波はとても臭くて自己主張していた。
六四でお湯割り。
もちろん六が白波四がお湯。
この頃の田舎の人達はこれでもかと接待してくれた。
そうするのが当たり前だった。
(高知では飲める方ですとは言わない方がいい、三升はかたいですなとなる、不調法でと言っても一升は空けると思っている)
大分の日田というところも行った。
ここは江戸時代の雰囲気を残した街作りをしている。
水路、に倉、倉敷と同じ、米を田んぼから収穫し水路で倉まで運ぶ。
普段あまり見かけない赤霧島をゲットしたしたのが日田。
少し落ち着いたら佐賀の日本酒でゴマサバやシマ鯵で地元の人達とつぶれるまで飲みたい。
九州ガンバ!