友人達のこと

弘太郎の3回忌へ行った。
少し遅れてしまったために、入口に近い席になった。
じゃ始めます、そして時間が限られているから、入口のほうの方から一言ずつおねがいします。
最初の二人は、阿佐ヶ谷フレンズのCDに参加したDADAと、スターを録音してくれた夫婦。
そして私、昨日ビルボードでファンキーミーターズを観てきました。
ウ、ウ、>>突然嵐のように体の奥底から大変な力でこみあげてきて、心の準備もないまま、押さえることができない。
何か言おうとすると、声にならず、涙声になってしまい、あとは肩で息し、しばし沈黙。
そして、鼻の奥がツーンとしてきた。
ようやくもう一度一緒にやりたかった、と言うのが精いっぱいで、着席した。
びっくりした、もう当然のように彼の死を受け入れて、落ち着いているつもりでいた。
そういえば、葬儀の時もウッドベース弾く時に、”ベース弾いて<きっちりお別れし、、、ウ、ウ、ます”、と、涙声になったのを思い出した。
なんだろう、弘太郎は知らず知らずのうちに、私の中に巣くっていたんだろうか。
なんせ、15で知り合いそこからずっと、音楽もプライベートもたくさんの時間を共有してきた。
しかし今は君とは違うよ、という意味も含めてバッハを弾き、WHAT A WONDERFUL WORLDを歌ったんじゃなかったのか。
そして2次会を杉高生10人で行き、あとはいつもの通り杉高3バカトリオ(私、O君、IN君)で阿佐ヶ谷に行き、さらに4軒ほどハシゴ。
45、6年前と全く同じ。あきれるばかりである。
私達に付ける薬はあるのだろうか。
佐久間君のこと。
佐久間正英が死んだ。
彼は杉高の1年先輩、52年2月生まれ。
弘太郎も行った和光大学、隣の部室でバンドリハしてた、仲間。その後四人囃子に参加した。
ちなみに初代ベースは私の小、中学の同級生の中村真一だった。
弘太郎からのまた聞きだが、GRAYの最初のPRODUCEはこちらからたのんだから、ただだった。
売れた後の2枚目は1億だった、と、そのあとおびただしい数のアーティストのPRODUCEをしている。
佐久間君はロックから入り、ロックで終わった。
最期の曲をテレビできいた、こりゃBEATLESじゃないか、少年時代から一貫して同じことをした、幸せな人、本人もそう言っていた。
弘太郎はロックから入り、沖縄民謡へたどり着いて安住した。
千葉伸彦のこと。
この人は、朝日夕刊の民謡をたどって、というアイヌ民謡の記事で1月18、20、21と三日にわたって出ていた。
三十数年前、暇があれば北海道へ行ってアイヌ民謡を研究していると言っていた。
もともと芸術家タイプのギタリストだった。
MUSIC MAGIC ORCHESTRAで一緒に天津、北京に行って演奏した。
今はトンコリアイヌの民族楽器)も弾いていてYOUTUBEにアップされた彼は、若々しく声なども変わっていない。
4つ5つ下だけなのに、あの若々しさはどうだろう。
どこぞの大学でも教授をしていると。
おそらく今も劇団四季の専属バンドで演奏しているとおもう。
彼もまたロックから入り、フュージョン、ジャズを経てアイヌ民謡までたどり着いた。
私はどうだろう、演奏すべき楽器と演奏すべき音楽があまりにも多くて、どこにも辿りつけないでいる。
BEATLES,ROCK,BRUES,R&B,SOUL,JAZZ,WORLD MUSIC(AFRICA,LATIAN、BOSSANOVA,SAMBA,SALSA,REGAE,)そしてBACHにオリジナルソング、STANDARD SONG。
楽器も普通の4弦ベース、4弦フレットレスベース、ウッドベース、エレクトリックアコースティックベースとある。
どうやらこのままいくしかなさそうだ。