大島渚

映画監督の大島渚が亡くなった。
80歳。
まだ20年あるぞ、と。ハハ。
35年くらい前、新宿のゴールデン街の洋酒屋で何度か隣席になったことがあった。
ゴールデン街といえば、区役所通りからくねくねと遊歩道が続いている。
店はみな遊歩道に背を向けて建っている。そのごちゃごちゃした一画が、言わずと知れた新宿ゴールデン街
この遊歩道はそのあと、抜弁天通りから東京女子医大まで続いていた。
都電が走っていた路線の線路と敷石を撤去したあとがこの遊歩道。
私は、女子医大に入院していた母を見舞うため何度もこのコースで通った。
おそらく、最後まで残った都電だったと思う。
しかも乗り口は西口だ。ガードを超え靖国通りから左折して行く。
都電が廃止になったのは私が小学校2年生の時に、地下鉄丸ノ内線が開通して、青梅街道は舗装され立派な通りになった。
ちなみに私は随分と大きくなるまで、一人では青梅街道を渡ることができなかったらしい。
母は、この子は注意深い子だから、と言って兄弟のからかいに弁護してくれていた。らしい。
その母が手術をすることになり、兄弟で1000CCの献血をした。
中学生だった私は年を偽って献血し、そのあと交通公社へ就職していた長兄が、増血ステーキをたらふく食わせてくれた。
健康で、大きめの中3の私は、一著前の大人気分で、少し誇らしげだった記憶がある。
閑話休題
その挑みかかるような印象が強い大島渚は終始小声で話をしていた。
朝まで討論のような感じはなかった。
もともと私はイデオロギーの論争をしても、友人を無くすだけだと思っている。
ので、ぎゃふんと言わすまで闘うぞ的議論は避けてきた。
本来的には相手を屈服させるまで許さないというタイプなのかもしれない。
しかし、基本的に私とあなたは、違う存在だから、お互いうまくやれるといいね。
というのがわたしの基本的スタンスである。
だから、どこの出身であろうと、外国籍であろうと、同じような生年月日(同じ年の10月1日と2日)であるわたしの妻であろうと、基本的に私とあなたは違うと認識している。
まず最初に、私とあなたは違うのだという認識がないと、相手を許すことなど出来ない。
相手がいて自分がいる、この当たり前のことを認識出来れば上手く行く。
最近特に思うことがある。
それは、脳みそや筋肉は、硬直化させてはいけない、ということだ。
年をとると、往々にして頑固になりがちだ。
私も常にそう言われている、だからこそ柔軟にと心掛けたい。

私はスポンジのようでいたい、いくつになっても、新しいこと(私の場合は音楽)を吸収しつつ、風通し、水通しのよい体組織でいたい。
大島渚愛のコリーダはクウィンシー ジョーンズのアルバム制作によって、素晴らしい結実を得た。
もちろん何回もレコードを聞いた。
アンソニージャクソンのベースは憧れだった。