ポピュラリティー 考 8

朝早起きし、練習しSCHOOLへ行き、帰ってからはボーイング、夕方からJUKE BOX BAND。
1日8時間はベースを弾いていた
そんな生活を2年近くやり、死んだ高田弘太郎の紹介でフォークの伴奏をすることになる。
田口清、猫というグループを解散したばかりだった。
作詞、作曲、唄 いわゆるシンガーソングライター。
弘太郎のアコースティックギターに私のウッドベースが伴奏、田口氏は弾き且つ唄う。当然のようにコーラスもする。
吉田拓郎南こうせつなどが設立したユイ音楽工房という事務所で、原宿の表参道と明治通りの交差点にあるビルの7階にあった。
オーディションみたいなことをその事務所の会議室でやった。
その晩には田口氏と飲みに行き意気投合しすぐに仲良くなった。
(田口氏は上板橋に住んでいて、何回か泊にもいった。
そのしばらくあと、私がフルバンドに行ってから、結婚し子供もできたが、その子供を自転車に乗せてる時転んで自分だけが死んでしまった。
やさしい、やさしい、人だった。)
ツアーも多く、ギャラはそんなにもらわなかったが、フォークの有名処とずいぶん知り合った。
たとえばこんなだ。
オフコース前座田口清、ジョイントコンサート浜田省吾WITH田口清、”風”全国ツアー前座田口清、新人フォーク田口清&長淵剛などなど。
小田和正も含め、今みたいにみんな売れていない時、長淵はおお順子という女々しい唄を歌っていた。)
晦日には武道館で来年もよろしく というコンサートが毎年あり、打ち上げには拓郎、こうせつ以下事務所所属の歌い手が全員集合で大宴会。
その後かぐや姫を抜けたパンダ氏が山田パンダ&パンダフルハウスを結成し参加。
そのほか新人のリサイタル、発表会、ミニライブ、等フォークにはまっていた。
この時代譜面はなく、簡単なコード譜をもとにヘッドアレンジで音をかためてゆく、それが主流だった。
しかも全部暗譜していたと思う。今は何も覚えていないのでわからない。
しばらくそんな生活をしていた。
そして杏里、西嶋三重子の事務所からオファーがあり両方に参加することに。
この時代多くのスタジオミュージシャンと知り合いになり、大いに刺激を受けた。
そんな生活の中これなら食えそうということで結婚もできた。
もちろん今の妻。
あるとき一緒になった庄野真代のところのベースがRALLY GRAHAM のHAIR,RELEASE YOUR SELFの完全コピーを弾いているのを見て、ウワーとなった。ある時伊勢正三のベースの石山氏が本番でフレットレスベースを弾いているのを見て、ウワーとなり、チャックレイニーを追っていたあ私は、どうしようと本気で悩んだ。
全部中途半端じゃないか。
仕事の合間にはセッションもした。
何をするか、何をしたいのか、何をするべきか、その悩みは今でも変わらないが。
なんてこった。
また本気で音楽をしないと大変なことになる。
そんな時グレープのバックをしないかと話が来る。そうあのさだ まさしだ。
その時は純粋な音楽的な悩みから簡単に断ってしまった。
もしその時さだとやっていたら現在のわたしはいないだろう、もうとっくに音楽から足を洗っているかもしれない。
この時期の変化が私をがんじがらめにした。