ポピュラリティー 考 4

高校へ進んだ。
さまざまな今まで見たことないような連中がごろごろいる。
より広い地域からたくさんの個性豊な奴等が集まっている。
すごいのがゴロゴロいるという感じだった。
BEATLES一辺倒だった私は、リッケンバッカーモデルのハニーのギターを持っているS君と同じクラスになり、グレコのヘフナーモデルのベースを持っているF君、そしてカントリージェントルマンモデルのエルクのギターを私が買い、BEATLES COPY BANDの出来上がり。
ドラムは1年先輩の磯野兄が付き合ってくれた。(その後彼は交通事故で亡くなる)
阿佐ヶ谷中杉通りにあった商工会議所でいくつかバンドが出てダンスパーティーだった。
中学、高校の悪ガキがわんさかきた。
学校脇の須賀神社の舞台でもリヤカーで機材を運び演奏した。
そして文化祭には一緒にやろうと言ってくれた瀬木君と例のハニーのS君と3人バンドをやった。
この時はBEATLESもだけれどライチャスブラザーズを演奏した。
初めて聞いたアメリカ白人のリズム&ブルースだった。
今でもこのライブレコードを持っているがそれこそ擦り切れる位聞いた。
そして同時にシャルルアズナブールのレコードもかしてくれた。
ぶっとんだ。日本で聞く愛の賛歌のあのシャンソンとはまるで違っていた。
たしかもう1枚レコードを貸してくれたがそれは全然覚えていない。
文化祭に出るためにライチャスブラザーズの曲のコピーから始め、歌詞を覚え、ハモリもする。
この作業が私の音楽の扉を押し広げてくれた。
小さい頃からいろんな音楽を聴いていて、ブルース進行は(12小説で1コーラスの形式)体にしみ込んでいた。
そして、時代はおりしもハードロックの時代、LED ZEPPELINのWHOLE LOTTA LOVEに完全にノックアウトされた。
そして数多のバンドが出てくる。
ブルースを母体にした骨太ロック全盛期。
どういうわけか朝セブンツーオーというテレビ番組があって、そこでエリッククラプトンを初めてみた。
まだクリームの頃だ。THIS IS WOMANCRYINGTONEといいながらチョーキング主体のブルースフレーズを弾いていたのをいまだに覚えている。
あまりのみごとさにノックアウト。
たしか司会は大原麗子だったはずだ。
学校行く前にこいう番組が見れる実にイイ時代。
そうそう土曜日の午後ビートポップスという大橋巨泉の司会番組もあった。
そこでタイガースのジュリーが失神してマネージャーに抱えられ引き上げるも又出てきて歌うというここまでやるか、というパフォーマンスをしていた。これはのちにJAMS BROWNのパクリであることがわかったが。それは本当に最近の話だ。
あの時代にJAMES BROWNを見てパクローとしたこと自体すごい。
私はまだJAMES BROWNまでいきついていない。
音楽の扉を少し開けた私は、もっといろんな音楽が聞きたくて、当時吉祥寺にあったBE BOPという名のロック喫茶に通うようになる。
BE BOPとはSWING JAZZ以降に起こったJAZZ STYLEの名だが、ここはロックのメッカとなる。
ここで気に入ったバンドがあるとジャケットを見に行き、覚えて、もう一度きいて良かったら買うという感じだった。
レコードは当時高かった。
この時代ハードロックにどっぷりはまり、ヘビーサウンドに身をまかせ、毎日やたらと長かった気がする。
その店で1番有名な、アブサンのロックがぶ飲みの、エネルギー凝縮人がいた。
同じ高校の同級生だった。
驚いた。